2013/7/27 4回目読了。
 臨床哲学者による本。自分が大学を受験した頃、現代文の問題文で目にしたことが2~3回あります。

 「じぶん」の根拠は他者にしかありません。けれども他者がいなくても「じぶん」が存在するように無根拠に思える(身体であったり心であったり・・・)のが、「じぶん探し」の問いに隠れている罠です。その罠に進まないようにするには、じぶんを取り巻く他者への意味ある関与をじぶんがすることで、罠への道が思い浮かばないようにするのが一策です。「<わたし>とは、わたしがじぶんに語って聞かせるストーリーであ」(p.175)り、「<わたしはだれ?>という答えはない」、「ある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじて自分の存在を見いだすことができるだけだ」(p.176)。


 以下、印象に残った箇所を書写。


「わたしたちは知らないあいだにいろんなものを失っている。失いながら生きていく。いまじぶんにできることのうちからどれかを選ぶことが生きることなら、生きるということはそれ以外のいくつかのなしえたかもしれないことを棄てていくことだ」(p.28)

 
 
「じぶんがとても不安定だと感じながら、あるいはじぶんの存在がとても希薄になっていると感じながら、しかもそのことにじぶんが気づいていないとき、ひとはじぶんに一つの『規則正しい』かたちを求める。が、ほとんどの『規則正しさ』は幻想でなりたっている。というのも、学校だって、会社だって、それがなければじぶんが滅びるというものではないのだから。そして、それを核にじぶんをつくっていると、『規則正しさ』とじぶんの存在との区別がつかなくなる。だから、定年を迎え、毎日おなじ時刻に出勤する必要がなくなったとき、ひとはとても不安定になるのだ。
 (中略)そのときのために、いやいまのために、存在がゆるんでいることに不安を感じないよう、じぶんを鍛えておかないといけないと思う。『不規則』であること、あるいはむしろ『無規則』であることを楽しむことが、案外重要なのかもしれない」(p.42-43)

 
 
「わたしはだれかという問いは、わたしはだれを<非―わたし>として差異化(=差別)することによってわたしでありえているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ『人間』であるという言いかたは、<わたし>が一定の差別(逆差別も含めて)のうえにはじめてなりたつ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある」(p.49)

 
 
「人生とは、ある意味では、こうした『じぶんに語って聞かせる説話』が自他のあいだでたがいに無効化しあう不協和のなかにあって何度も何度も破綻する過程であり、またそれをたえず別のしかたで物語りなおすべく試みる過程であるといってもよい。一つの物語しかなければ、それがくずれればじぶんも修復不可能になってしまう」(p.72-73)

 
 
「じぶんをかたちづくっているその物語は、けっして恣意的に選択したり、取り替えたりすることのできるものではない。これは部品交換のようにかんたんには交換できないものなのであって、というのも、物語の破綻はそのままわたしたちの人格の破綻につながるからだ。
  ここでつぎの二つの点に注意しておく必要がある。一つは、物語はそれが物語であることを忘れることによって、はじめてじゅうぶんに機能するということだ。そのためには、同じこの物語を共有してくれるひとがいなくてはならない。
  二つめは、その物語じたいが、わたしたちがそれぞれ一からつくりだしたユニークなものではなくて、わたしたちが属している共同体に深く浸透している意味の組織のうちに根をもち、そのかぎりで他人のそれと、いわば同じ生地でできているということだ。
  このように見てくると、アイデンティティを手に入れるには、どうしても他者が存在しなければならないことがわかる。他人と共謀して一つの物語を紡ぎだし、それを共有することで、それぞれがより深く物語のなかに埋没していくということがなければならないのだ。こうしてひとは、いまあるのとは別の生きかたというものへの想像力を、すこしずつそぎ落としていく。より深く、じぶん(たち)を夢見るようになるために」(p.96-97)

 
 
「わたしの文章が、というよりこのわたしじしんが、そのつど<他者>としての顔を差しだしてくださったこれら多くの友人たちによって存在の理由をあたえられたことは疑いない」(p.179-180)