2013/7/21 3回目読了。
 この本に書いてあることを私なりにわかる気分になったのは、私が〈哲学〉と「哲学」をやったからなのか、私が〈哲学〉を終え気味で「思想」を身に付ける途上にあるからなのかと思いました(実のところ、ときどき、自分がそうなりつつあるかもしれない、と事後的に感じる場面に遭遇したと感じることが増えつつあります)。

 少しずつ過去にマーカーを引いた箇所を主に読み直しました。最も印象に残った箇所。こういうところに私は興味を持つようです。
 
「すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、と僕は思う。
  個人についてではなく、社会についても、同じようなことがいえるだろう。世の中をよくするよりもそのまま維持することのほうが、むしろ困難で微妙な課題だろう。善悪についても、そうだろう。極端な善人もいれば、極端な悪人もいて、その中間にいろんな人がいる。そして、それこそがよい状態なのだ。それは与えられた現実であると同時に実現すべき課題なのだ」(p.162-163)



 以降も同様に、印象に残った箇所を書写。

 [<子ども>のための哲学とは?]
 
「ぼくが読者の方々に伝授したいやりかたは、とてもかんたんなものだ。大人になる前に抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである」(p.13)

 
 
「もしある人間に何らかの欠陥があるとしたら、その人間がいちばん救われるのは、何とかしてその欠陥を売りものにする方法を編み出すことであろう」(p.17)


 
「子どもの哲学の大きな特徴は、純粋に知的であることである。それによって何が変わるわけでもないが、ただ単に本当のことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。青年も大人も老人も、全身全霊を傾けて発せられた単なる知的疑問というものがあることを忘れている。ぼくの考えでは、それは哲学を忘れているということと同じだ」(p.21)


 
 [第一の問い なぜぼくは存在するのか]
 
「たとえ『哲学』と出会わなくても〈哲学〉をすることはできるし、それは有意義なことだが、逆に〈哲学〉をすることはできるし、それは有意義なことだが、逆に、〈哲学〉とつながらない『哲学』はまったく何の意味もない、ということだ。
 〈哲学〉とつながらない『哲学』は、もはや『哲学』でさえなく、思想(thought=すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。その陳列棚をながめて思想の優勝劣敗を論じる品評会を開いたり、気にいった一つを買い取って、以後それを携えて生きていくことほど、反哲学的な行為はない。それなのに、すべての哲学者が思想家(=思想を作った人)であるかのように見えるのはなぜか。それは、人間が生き続け、考え続けることができない存在だからにすぎない。ある時点で切断された思考は思想に、つまり哲学することと無縁な人の鑑賞物に、変わるのだ。生前から思想家(=思想を作ろうとしている人)であったような哲学者などはいない」(p.70-71)


 
「ああ、そうだったのか、という過去形の納得が起きれば、そこで哲学はひとまずは終結する。そのときになってはじめて、自分が何を追い求めていたのかが分かる。それは、どんな思想の提唱でもない。そこには、こう考えるのがよい、こう考えよう、と提唱する(他人に、そして自分に)といった未来志向的な要素はみじんもないからだ」(p.102)

 

 [問いの合間に「上げ底と副産物」]
 
「思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)を、そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも、ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから、自分にかわってそれをやってくれるひとだけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人(=協力者)なのだ」(p.110)


 
「哲学は何の役に立つか。世の中のあらゆること(惰眠とか泥棒とか…)が何かの役に立つとしても、哲学は本来なんの役にも立たない。まさにその役に立たなさこそが、哲学の存在理由であり使命なのだ。役に立つとは、何らかの価値の存在を前提にして、それの実現に貢献するということだが、哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての価値を問題にできる)唯一の営みだからだ。そのことが、ときに哲学するひとになぐさめを与える。もし世の中で哲学が何かの役に立つとすれば、たぶん、ただそのことによってである」(p.115-116)

 
 
「哲学の成果を思想として受け入れ、それを信じて生きていくのは、だから、いつも他人なのである」(p.117)


 
 [第二の問い 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」]
 
「優良は好さの一種であり、劣悪は嫌さの一例でしかない、ということだ。だから、優良が善に、劣悪が悪に転化するというのは、せいぜいのところ、ことがらの一面でしかない。もっと批判的に言うなら、優れた、有力な人を『好い』と感じ、劣った、無力な人を『嫌な』と感じること自体、力関係によってつくられた反自然的な捏造物にすぎないだろう」(p.136)


 
「道徳という制度が成立している世界では、それに従うことが自分にとって有利になりがちだから、というものだった。つまり、道徳的に行動するか、非道徳的に行動するかは、道徳という制度が確立している世界での戦術のちがいみたいなものだ、と考えたわけである」(p.143)

 
 
「なぜ善いことをすべきなのかとか、なぜ悪いことをしちゃいけないのか、といったような問いは、大人の立場から見れば、つまり社会全体にとっての必要性という見地から見れば、かんたんに答えが得られる、ということだ。みんなが悪いことなんかしないで、善いことをしがちな世の中の方が、その逆の世の中よりも、みんなに好いに決まっているからだ。問題はただ、このみんなにとっての好さが、それを実行する当人にとっての好さと、ちょうど逆転する、ということにあるのだ」(p.152-153)

 
 
「人間は、道徳的でないからこそ、日々、道徳的言説を吐くのだ」(p.156)

 
 
「すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、と僕は思う。
  個人についてではなく、社会についても、同じようなことがいえるだろう。世の中をよくするよりもそのまま維持することのほうが、むしろ困難で微妙な課題だろう。善悪についても、そうだろう。極端な善人もいれば、極端な悪人もいて、その中間にいろんな人がいる。そして、それこそがよい状態なのだ。それは与えられた現実であると同時に実現すべき課題なのだ」(p.162-163)

 
 
「哲学とは結論よりも議論の過程を重視するタイプの思考法のことだ」(p.169)

 
 
「道徳という制度には、それを誉め称えてくれる翼賛的なイデオロギーがなくてはならないのだ。そういうものがなくては、人間は自然な同情心を超える範囲まで、自分にとって好いことと世の中にとって好いことを重ね合わせる動機が持てないからだ。つまり、倫理学が言っていることは全部〈うそ〉だけど、でも、それはぜひとも必要な〈うそ〉なのだ」(p.172)

 
 
 [哲学とは?]
 
「哲学がむずかしく思われるのは、それが他人の哲学だからなのだ」(p.198)

 
 
「自分の哲学ほどわかりやすいものはない。なぜって、世の中で通用しているふつうの考え方がわからないから、自分に理解できる考え方でそれをおぎなおうとしたとき、そこに生まれるのが哲学なのだから。どう考えたって、これほどわかりやすいものがほかにあるはずはない」(p.199)


 
「すべてはただ、それぞれの人に考えぬいてみたい問題があるかどうか、につきる。もしあるなら、それを考えればいいし、考えるべきだ。いま、それを〈哲学〉と呼ぶとすれば、それが世の中で認められている『哲学』の概念と一致するかどうかなんて、ぜんぜんどうでもいいことであるはずだ」(p.200)

 
 
「〈哲学〉は、それをした人の死とともに消滅していいのだ」(p.201)

 
 
「どんなに哲学することに誘おうとしても、結局、すでに哲学されてしまったものを提示することしかできない、という困難だ。ぼくの哲学は、ぼく以外のひとにとっては、中途半端な一個の思想でしかない。思想を語ることによってしか哲学のやり方を示せないということは、残念ながら認めざるをえない事実だ」(p.202)

 
 
「ぼくは、読者の方々にぼくの考えている問題を考えてほしいとは思わない。ぼくが考えている問題は、それが問題であるひとだけが考えるべき問題だ。どんな哲学も、思想としてではなく、哲学としての意味がわかるひとは、少数しかいない。どんな哲学も、〈哲学〉として理解できるひとは、特定の種類のひとに限られる。そして、それでいいのだ。ある哲学の意味がわかるということは、別の哲学の意味がわからないということなのだから」(p.208)