新聞記事で興味のある分野に関する論考があったので、一部抜粋します。皆さんの様々な見解を聞ければありがたいです。


 『論理の重要性』  野矢茂樹さん(哲学者) 東京新聞(夕刊) 2005年8月20日付 注:この記事名ではない


 「…議論が対立していて、互いに修正や撤回が考えられないときには、相手にどうやって勝つかだけが問題になる。その場合には論理も何もない。論理とは、自分の言いたいことを伝え、相手の言ったことを理解するコミュニケーションの道具。お互いに自分の意見に一貫性を持たせる一方で、相手の批判を聞いて修正、撤回する柔軟性がなければ成立しない。つまり共同作業によって生み出されるものなのです」 (続く)


 (続き)

 論理が求められるコミュニケーションとは「スパンの長いもの。つまり、ある一言が、しばらくたってから言ったことときちんと関係付けられていれば、その会話は論理的であると言える。この意味で、言葉と言葉の関係こそが論理と言ってもいい。だから論理的な力とは、いかに大きく言葉の関係をつかまえることができるか、ということなのです」
 
 学生は論理的訓練に最適な期間である。「社会人になるとガードも固くなり、中々自分の意見を譲れなくなる。そうすると論理の力を伸ばすのも難しくなる」

 向き合う機会が飛躍的に増えている“異質な相手”と「コミュニケーションをとる場合には、自分の抱えている暗黙の前提を全て明らかにした上で話をしなくてはならない。実に回りくどい作業ですが、まさにそうした場でこそ論理的なコミュニケーションが要求されるのです」



 …僕(ら)は人と話していると、上手く自分の思うように話が進まない場合、自分の目の前にいる人を、「この人は何を考えているんだ」とか「何故私の意見をこの人は理解しようとしないのか」と、それこそ敵視しがちです(少なくとも肯定的な感情を抱く事は難しいでしょう)。目の前にいる人もまた自分と同様に独自のものの見方を持っている人であること、自分の意見が尊重されるならば自分以外の人の意見もまた同様に尊重される事を失念し、「勝つ」ことだけを目標とします。


 大学入学後、私が結果として現時点で最も鍛錬(しようと)してきたことは、「人に自分の意見を納得してもらうための技術」でした。自分の持つ「妥当かつ正しい」意見を提示して相手を論破するのではなく、「妥当な」意見を提示して理解してもらうこと。困難な知的作業ですが(僕は出来ていませんし)、だからこそ価値のあるものだと考えています。